2018年1月16日火曜日

フィン・マックールとアイルランド上王(1)

フィン・マックールはアイルランドの上王に使えた戦士の長である。
しかしフィンの活躍した時代は長く、その間に数多くの上王が入れ代わり立ち代わり王座に座っていたことはあまり知られていないだろう。
フィン・マックールが最初に戦士の長になった時に、これを認めたのが百戦の上王コンだった。そしてフィン・マックールが死ぬことになる戦いを始めたのはコンの曾孫のケアブリ(カルブリ、カルブレなどとも表記する)だった。
コンの一族は有力な王家であり、コンやアルトやコルマクやケアブリなどの上王を輩出していたうえに、フィン・マックールの妻となるグラニアやアルヴァもこの家の生まれであった。そのため、フィン・マックールの物語ではコンの一族は端々に登場している。

一方でコンの一族に対抗する勢力が存在した。アイルランドは古くからコノート、アルスター、レンスター、マンスター、ミースの5つに分かれていて、上王の権威は絶対ではなかったからだ。
コンの一族はコノートに縁が深い。コノートとは本来はコンの子孫を意味する言葉であり、それがコンの子孫が支配する土地の意味にもなったほどだ。
コンは百戦王の名があらわすように百余りの戦いをコノートの外の四王国に仕掛けたとされる。上王コンの治世はレンスター王国への戦いから始まった。
当時のレンスター王国はカサル・モール王が治めており、コンの先代の上王にして彼の舅でもあった。コンの妻が死ぬと百戦王コンを惑わす魔女が現れてコンの息子アルトが使命の旅に出ることになる、という物語も存在するがそれは別の話。

 舅を殺して新たな上王になった百戦王コンはこの時に、新たなレンスター王にクリファンを据えた。(Crimthann Culbuide:古ゲールの発音ではクリウサン・クルブデ?)
クリファンはカサルの遠縁だ。このことは後に確執となって響いてくる。
 フィン・マックールの生誕はおそらくこの前後の出来事だろう。フィンの父親はクウァルといい、百戦のコンに仕えていた。だがクウァルは百戦のコンに反旗を翻した。
(クウァルの他にクウィル、クールなどと日本語では表記される。)
その理由はフィン・マックールを産む女性、マーナを彼女の父親の同意なしに連れ去って妻にしたことにあると言われる。マーナの父親はカサル・モール王に仕えたドルイドであるが結局はコンに頼るほかなかったようだ。クウァルがしでかしたことは不法行為であり、むやみに法を曲げることは上王にもできないため、コンはクウァルを討伐することに決めた。
 討伐軍のメンバーとして白羽の矢が立ったのが、後に勇名をはせるゴル(隻眼)と呼ばれることになるエイや戦士団の長の座を狙うUirgriuだった。彼らはカサル・モールとの戦役でも活躍しており当然の起用だったと言える。

(ちなみにクウァルはカサル・モールとの戦いを題材にした詩や物語では全く存在感がないが、彼がカサル・モール王の遠縁にあたるレンスター王家にゆかりのある人物だったからかもしれない。歴史家ヒューバート・トーマス・ノックスはクウァルが新たなレンスター王クリファンを排除したと言及している。あくまで伝説として言及したのだろうが、レンスター王の座をクウァルが求めていたのかもしれない。)

 討伐軍とクウィル軍はクヌーハの地で激突し、クウァル軍は敗れた。戦いの中でエイはクウァルに刺されて片目を失う重傷を負ったが、逆襲してクウァルを討ち取ったのだった。クウァルの忘れ形見である赤ん坊はかくまわれてデムナと名付けられて山中で密かに叔母に養育されることになった。
ところでクヌーハの戦いでクウァルは孤立無援だったかというと、どうもそうではなさそうだ。
 クヌーハの戦いが来るまでマンスター貴族に格差はなかった。
このように後の叙事詩は語る。クヌーハの戦いに参戦したからこそマンスターに変化が訪れたのだろう。「クヌーハ、リフィー川の丘」という詩ではクヌーハで戦いが行われクウィルが戦死した後にわずかな平和があり、百戦王コンとマンスター王エオガンによってアイルランドが分割統治されたとされている。学者のエオイン・マクニールは直接的にマンスター貴族がクヌーハの戦いでクウァルに加勢したと述べている。

なにはともあれクヌーハの戦いで敗北したマンスター貴族たちは動揺した。この動揺のなかでエオガンと彼の父ムグ・ネト(Mug Neit)は地位を高めていき、一方で上王コンの軍勢の強さとエオガンの支配に危機感を募らせた一部のマンスター貴族は上王コンに恭順したのだった。

上王コンとの対立が決定的になった時、叙事詩「マグ・レナの戦い」によるとマンスター軍は北上して干戈を交えた。結果はマンスター軍の敗北だった。
かつてカサル・モール王の王子を打ち倒す戦功をあげており、コンの息子の一人ともいわれるアサルが先陣をきってマンスターの先鋒を打ち破り、マンスター軍は後退を余儀なくされた。敗走を続けたマンスター軍はムグ・ネトを失い、王子エオガンが殿軍を率いて懸命に防戦した。
エオガンはゴル・マクモーナやアサル、百戦のコン、コナル・クルアハといった猛将の攻撃に窮地に立たされたが、女神とおぼしき存在であるエディーンに助け出されてアイルランドの外へ逃れスペインへ船出した。エディーンの幻惑によってエオガンを取り逃がすことになったコンは、恭順していた貴族のマクニアとコナラにマンスターを統治させることにした。

なんとかエオガンはスペインの地で兵を集めてマンスターに帰還した。そのころには既にクウィルの息子はフィン・マックールと名乗り、少年ながらアイルランドの戦士の長の座にあったのだった。
エオガンはさっそくマクニアとコナラを強引に降伏させて、百戦王コンに再び反旗を翻した。百戦王コンに悩まされた諸王国に共闘の誘いをすると各地から連合軍が集まった。レンスター王クリファンは百戦王コンを支持したがカサル・モール王の息子たちは父の仇を討つべしとエオガンに加勢した。アルスターもエオガンに共闘してコンに反旗を翻し始めていた。
こうなってしまうと戦上手な百戦王コンといえども連合軍の勢いに押されて敗退を重ねるほかになかった。やむをえず百戦王コンはエオガンにアイルランド全土の分割統治を提案した。それは北半分をコンが支配して、南半分をエオガンが統治しようという案だった。ここに和平協定が結ばれ、フィン・マックールはレンスターの王子の推挙により南半分においても特別な戦士としての地位が与えられることになった。

 その後、平和が破られてコンとエオガンは再び熾烈な争いを繰り広げるのだが、これら一連の流れにおいて奇妙なほどフィン・マックールの存在感は薄い。
 先述の南半分においても格別の待遇が与えられたこと以外には、百戦王コンに呼び出されて王都タラを守るように命令される時にしかフィン・マックールは登場しない。いざ決戦という時に有力な戦士を敵がいない後方に配置したのだ。フィン・マックールは冷遇される一方、ゴル・マクモーナはエオガンと幾度も戦い重用された。

それはなぜか。おそらくフィンの父親のクウィルが反乱を起こしたうえに、その背後にはマンスターの影があったからだろう。上王コンはフィン・マックールの反乱を警戒していたからではないか。
これを裏付けるわずかな記述が12世紀後半に成立したとされる「Acallamh na Senórach」にある。
南を手にいれたのはエオガンで、トレンモールはエオガンの支援者だった
 トレンモールはクウィルの父親であり、フィンの祖父だった。南を手に入れたエオガンとは百戦王コンのライバルであるエオガンに間違いないだろう。つまり、トレンモールは息子の敵討ちをしようと老骨に鞭打ってエオガンの陣営に馳せ参じたのかもしれない。
 フィン・マックールにとっては板挟みといえよう。仕えるべき王は父親の仇で、倒すべき敵は父親を支援してくれた人なのだから。フィン・マックールがどのように思っていたかはわからないが、王からは信頼されないうえに祖父は敵に寝返ってしまった。


 「アルムの家の小さな喧嘩」という物語があるが、これは海賊(ロッホラナハ)の王エオガンを倒すゴルの武勲に比してフィン・マックールはエオガンの妻に囚われてしまう情けないありさまだったという昔話から、ゴルとフィンたちが喧嘩を始めてしまうという筋書きだ。
しかしこの物語のエオガンは百戦王コンのライバルのことを示しているのかもしれない。エオガンは海から攻め込んできたのだから。そうであれば、情けないといった印象は変わってくる。フィン・マックールがエオガンに懐柔されていたのではないかという疑いのまなざしが物語の根底にあるからだ。
 「クヌーハ、リフィー川の丘」ではフィン・マックールは上王に間違いなく召し出されて(戦った)と強調されているが、これはフィンに戦う気がなく活躍しなかったという疑いを否定したい気持ちの表れではなかろうか。

 エオガンと百戦王コンの戦いは百戦王コンの勝利に終わった。フィン・マックールはその後も戦士たちの長として百戦王コンに仕えたが、両者の間に吹いた隙間風はフィン・マックールが「コンの一族の王」と「反コンの勢力」の間を揺れていくことの予兆のように思える。

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